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批評

8月。サイト巡り。その1/3

その1
 今年の夏、予定していた休暇が予定通りに取れてしまったため、少々の暇が出来た。前倒ししてシナリオの批評をしていたためだ。
 というわけで、一日かけて、Cardwirthの関連サイトをぐるりと回ってみた。


  Wikipedia「Cardwirth」

 本ブログにある「カードワースの環境の補足と酔生夢死」という記事で、以前、Wikipediaの事が記載されていたのを、覚えている方もいるかもしれない。
 リアクションはあった。しかし、掲載し続けることで、延々と改変が続く可能性があることに気づき、一週間程度で削ってしまったが。
 今年の夏、あらためて見てみた。
 あんまり変わってねぇなぁ……という印象。以前にも書いた「ソースのない主観」とも呼べる部分が、またまだ散見される。

 で、今回気づいた事実を一つ。


  拾穂文庫の「事件録」

 Wikipediaの一節にこうある。
個々の出来事をより詳細に記録した文献としてファンサイトの一つである「拾穂文庫」に「CardWirth史年表」というコンテンツが存在する

 拾穂文庫さんは知っている。一節引用もしているが、いちから見た記憶がない。
 腰を据えて、初めて読んでみた……ん!?
 ……問題は、このサイトの「序言・編集方針」だ。この一節を見てほしい。

何を「主要」と見るかの出発点はつまるところ私の主観になってしまいます(「私のプレイしたシナリオ一覧」のような気も)。また、実のところ「調べるのが面倒くさい」といういいかげんな理由で書き込んでいないものもありますし、日付の特定が困難なために記載していないものもあります。
私の趣味に合うか否かを問わず、なるべく次のようなシナリオは落とさないように努力いたします……

 極限までかいつまんで言おう。
 客観的なデータそのものが価値の研究で、書けるデータを書かないというのは、歴史の創作かと。

 ※
 補足。つまり拾補文庫さんの編集方針だと、意図的な取捨が可能だということ。
 本人にそのつもりがあるかどうかは関係なく、そのような使い方ができる、言い訳に使える書き方だ)

 歴史にとって、主観は不純物なのだ。
 遙か昔のことで、誰も見たことがない。やむなく遺された文献……至極、主観的なものでさえ引用せざるをえない。そういうものと自身を混同していないだろうか?
 これは主義の問題ではなく、行為そのものが害になる例である。

 引用した一節の下にも、グタグダとあやふやです。とくりかえし書いてあるが、だったら
「ここからここまでは、完璧に網羅するつもりです。わかる範囲でデータも提供しますので、補完のために有志も募りたい。ご意見も募集しています」
 と、しきり直すか
「私の匙加減です」
 と、短く判るよう警告したらよろしい。

 でないから、史年表という大言に踊り、このようなサイトをWikipediaに引用するバカが出てくるのだ。

 もう一つ。主観です、という言葉は、何の免罪符にもならない
 この言葉は、たとえば批評においては、どうしても読解力に依る部分がある。という警告であり、前述の如何を問わず、答える義務はのこっている
 そして事実、今日まで質問には答えているはずだ。


 正直、これを見て、文字通り噴飯(といっていい現象がおきた)してしまった。
 私も漠然とした評判で留まっていた口というわけだが……しかし、これをソースとして信用するようなのは、救いようがない。

 上のサブタイトルみたいにして、事件を切り取った記事だけ掲載すれば、養生も楽である……と、忠告しておきたい。
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