解題「竜殺しの墓」 ~模倣のレベル~
以前、シナリオの解題の受けつけをしていたことがある。
といっても、実際に書いたのは一件のみ。後は批評をもって代えさせて頂く、そう約束したのだが、それすらも守れそうにない。
じゃあたとえば、たった一作、これを評論すれば許してもらえるのではないか。という(勝手な)気持ちで選んだのが、本作だ。
サプライズとお詫びを兼ねて解題したい。
解題は、オープニングから序盤のゴブリン退治まで、これを三つに分けて解説する。
序盤しか解題しないのか? そういわれそうだが、実はこの最初の三シーンに、この作者の美点と欠点がすべて詰め込まれている。残りの部分は同じような指摘になりそうだから。
1・魔術師からの依頼
魔術師から竜殺しの墓を見つけてほしい。との依頼を受ける。
実を言うと、このシーンに限っていえば、指摘する部分はない。
100点と言っていいだろう。
だから、次の一点を覚えておきたい。
ユニークな文章処理
この方の良いところは、文章への意識がある、という点だ。
この人の文章法は、話し言葉の処理に特徴がある。
リズムを意識し、合間で切ることで読みやすくしている。
たとえば
「『墓』を見つけたら、
ここに戻って
その位置を報告すれば
いいの?」
など。
最初、修飾語や主格や動詞の節目で切っていると思っていたが、どうやら違うようだ。シーンによってまちまちである。
この方法は、スペースに制限がある漫画などで使われる。
「なるほど。文章が上手いんだな、これなら見た目もいいし」……そう思う人もいるかもしれない。
私は逆だ。文章力を評価していない。
この理由は次で話そう。
とにかく、この文章の意識は、本作を支える重要なポイントとなっている。
2・村
竜殺しの墓がある村に向かう冒険者たち。
途中、謎の少女に会い、引き返すように言われる。
次にあったのが村人。竜殺しの墓にはゴブリンが住み着いているらしい。
村に到着。村長に面通しをして、情報収集をすることに。
一通り村を巡り、じゃあ宿屋で休息しようか……「いや、もう少し情報を集めよう」と言われる。
神父さんの話をすべて聞かないとダメらしい。教会で全部聞いて、宿屋に戻り、就寝。
神父の話で引っかかった冒険者は多いのではないか。
「話を続ける」という選択肢で、神父の言うところの「長話」を小分けにしている。
「話が長いので、気を使って小分けにしてくれた」……同じような方法で、話を分けた作者も多いだろう。
はたして、そのとおりなのだろうか?
さて、1で文章が上手いな、と思った方に聞きたい。文章が上手いのなら、なぜ小分けにする必要があるのだろう。
文章力は、こういう状況を興味を持って読ませることに発揮されるもののはずだ。
分けたのは冒険者のため? 捜索の途中だったから……
これもおかしい。途中で別の話が割り込めば、「長話」が余計に分かりづらくなるのは目に見えている。
冷静に考えてみてほしい。どちらにせよ聞かせたい話なら、小分けにせず一気に聞かせればよい。
捜索のジャマをしたくなければ、宿屋で就寝したら、部屋に神父が訪ねてくるなどでもいいわけだ。
しかし、それ以前の問題もある。そもそもなぜ長いと感じたのか。たかだか数十行を。
これ以上長いテキストを読ませてくれるシナリオはいくらでもあるはずだ。
より端的に言えば、文字を読む小説で10行ごとに中座を勧められた経験は?
この人の文章、そしてシナリオには、ある一つの要素が欠けている。それはストーリーを作る意識だ。
だから小分けにするという方法を取ってしまう。細かい理由は後で。
3・ゴブリン退治
墓のある洞窟に向かう。(中略)
洞窟の入り口にはゴブリンがいた。「眠りの雲」をかけて突撃。
洞窟には一人づつしか降りれない。中には大量のゴブリンがいて、倒しても次々に沸いてくる……
たった一カ所取り上げて「ストーリー云々言い過ぎだろ」という方に是非、聞きたい。
このシーン、ストーリーに必要だろうか?
洞窟の前のゴブリンには、いくつかのキーコードが対応している。
しかしはっきり言えば、どうでもよい。
評論でそんなこと言っていいのか? ――このシーンに限って言えばふさわしいだろう。
すべてのキーコードが試せるわけでもなく、結果にも大差がない。
洞窟のゴブリンにも苦戦しないはずだ。私は冒険者レベル5、リューンの装備で固めた6人で挑んだが、強化系の魔法をかけず、水精召還も使わず、一度で勝てた。
もしかしたら、人数が少なかったら苦戦するかもしれない。
しかし繰り返すが、だから何なのだ?
そもそも、私がかけた、20戦闘ターンの価値があるシーンだったのだろうか?
ゲームにしたってもう少し煮詰められるはずだ。ついでに言えば、4~6レベルの冒険者は、ようやくゴブリン退治を卒業できたレベルのはず。
このシーンがゴブリンである必要はどこにあるのか? 墓の入り口をふさぐだけだったら、岩が動かせて知性があれば何だっていいはずだ。
よくよく考えて頂きたい。「竜殺しの墓」という張り紙をクリックして、期待感満点のOPを過ごし……・そこからなぜかAsk以下のゴブリン退治をやっている事実。
「賢者の選択」だったら、もうカナンの腕をつないでいる。それくらいの時間がたっているのに。
OPと神父の話を合わせたくらいの時間をかけて緊張感のないゴブリン退治の焼き直し――
誰だって、いくらでも話が振れる場面なのである。
ストーリーの欠如
この方の目指しているのは「完璧な模倣」だろう。
とにかくファンタジーの定形をかき集め、切って張ってを繰り返す。演出もコピーする。音楽の止め方、かっこいいセリフまで。
(城塞都市キーレ(カーレのパロディ、一部の商品も古典の完コピ)を見るかぎり、真似をしないと自信がないのかもしれない)
結果、出来たのは、パロディ元よりふくれあがった、ぶよぶよとした「長編」だ。……彼の模倣はここまでである。
上記のシナリオは、ストーリーを軸にする、という意識があれば、シーンの優先順位くらいはつけられるはずなのだが。
しかし、この作品の筋書きは、模倣の一環でしかない。
伝えるべきストーリーなどないし、削ろうなどという発想も生まれない。だから長い。
ストーリーの構築にはアタマと経験が必要だ。相手の目に見えない部分を扱うから。
先ほどの神父の話がまさにそうだ。ストーリーの流れの中で、神父の話は必ずしも必要がない。後に回してもまるで問題なく、冒険者がその情報を欲しがる状況を作ってからゆっくり聞かせてやればよい。
先ほども指摘したように、ただ読み流してもよいというなら、宿屋に入ってから聞かせてやればよいのだ。
しかし実際はどうだ。表面的な筋立ての中で、あそこで神父が話すのは理にかなっているようだが、現実にはストーリーを追っているプレイヤーの意識の問題がある。
この感覚がないから、作者は神父をあの場面に配置したままだし、それで話が伝わりづらいと自覚できても、小手先に頼らざるをえなくなる。
1番目の文章力を評価しなかった理由も同じだ。ストーリーの構成も文章力のうちだと覚えておきたい。
でもシナリオじゃ読みやすい? 文法を間違えず、バラバラにして頭に並べて読めなけりゃ、いよいよどうしようもない。
ひとつ試してみていただきたい。改行されている部分を繋いでみよう。おそらく、読むのに何の問題もないはずだ。ただし、これが10や20コンテント続くと、目が滑り始める。
なぜか? ――長さと比較して中身がないからである。あの改行はひとつのテクニックとして賞賛すべきだが、しかし糊塗の範疇でしかない。
実際、上記のような「長話」程度でオタついてしまう。
じゃあ1番目のシーンが100点の理由は何か?
プレイヤーの必要な情報と、作者の提示した情報が一致しているから。
なんてことはない。依頼を受けに来た冒険者と、依頼主の話である。これでムードがあれば、100点で良い。
興味のない神父の話、不要な上にゲームとしてもマヌケなゴブリン退治とは雲泥の差だ。
しかし、作者は意識して作ったわけではない。よくあるスタート地点だった、という事だ。
事は単純だ。文章への気づかい、演出への気使い自体はあるのに、その一方で神父の話やゴブリン退治のような些細な改善、シーンの必要・内容自体が分からないギャップ。
作品の表面を固めるような模倣しかやったことがない。
それがアダになって、目と耳で分かる部分しか真似できないのである。
感動の内訳、模倣の追求、内在ロジックの発見――下に挙げる作品のように、応用する段階に至っていないのだ。
意識のなさは技術にまで響く
このブログで評価している「凡作」……「賢者の選択」や「白弓の射手」との決定的な違いは、ストーリーに対する意識の違い――から来る、技術の差だ。
「賢者の選択」の、墓に閉じ込められた場面を思い出してほしい。
最初のカナンの部屋までは、事実上の一本道である事にお気づきだろうか。
進むと扉が二つあり、その一歩先には扉がない。だったら順番に開けていこう、という作者の誘導。
順番に開けていくと、石棺→ミイラ→石棺のなかのミイラを食べるグールになる誘導。
カナンのいる扉の先は、さっそくの分岐である。さっきまで一本道だったのに。
ここからがゲームである。
言葉は使わない。しかし作っているのはストーリーなのだ。冒険者の自由を崩さない範囲で、誤解なく伝えるよう努力している。
「白弓の射手」のPabitさんはこれより上手い。要点は批評に書いてあるはずだ。
もちろん、これらと比較したときに、「竜殺しの墓」は論外と言っていいだろう。
総評
このような作品が作りたいという方は、まず日本語を推敲して、冒険者たちが話す浅い会話を改行しまくればよい。
脚本は好きにどうぞ。ストレスなく読めるくらいにはなる。
結局は未熟。
理由はどうあれ、観察が表面的な部分でとどまっている。それだけである。