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批評

悪の自覚

本文なし
 サービス終了に伴ってサイトが消える。
 もちろん、そこで保存されていたコンテンツは消滅する。自明の理だ。

 だから紅月せなさんが、消えるサイトで配布されていた素材を「※消失したため本サイトで保管中。」などとやり始めたときは、すげえ度胸だな、と感心した。

 サイトの消失が、個人や集団、公共において絶対的に損失だ、と考えるのは一面的に過ぎる。 
 もしサイトの管理人が更新する気力はなくともサイトの存在は覚えていて、サービス終了はキリがいいからCardwirthもおしまいにしよう、と考えていたらどうだろう。
 相手が無断転載をいちいち監視してこちらに連絡をよこしてくれる、なんてムシのいい話は考えないことだ。こいつのことは許せないが、もうCardwirthはやめた。かかわるのはよそう、とか。
 これは仮説にすぎない。が、証明もできない。それを追求することが、消えたサイトの管理人に迷惑をかける可能性になる。
 つまるところ、消失したサイトの管理人の権利を第一に考えるなら、消えた、という事実そのものを尊重することだ。触れないことである。

 なんとなく誤解されがちだが、internet archiveはネットの存在に付随してくるインフラではない。一団体の活動であり、きわめて公共的な面はあるものの、絶対的な権限はない。削除依頼に簡単に応じるのは、このサイトの立ち位置――行為の色調、つまりグレー――をもろに体現している。

 Cardwirthは著作権に厳しいという。
 これを大真面目に受け取っているなら、個人が特定されない範囲での横流し、エログロ改変が行われているのを横目に、何の抑止力もなくシロを気取っているバカの集まりだと白状しているわけだ。

 今日、こんな話はナンセンスもいいところだ。
 たとえばtwitterの無断で切り抜いたアニメアイコンを根絶しよう、と立ち上げてみたらどうだろう。
 提起者はなぜか、行きすぎた善人――つまるところ過激派、狂人――扱いされる将来がほの見えてくる。
 これはもっとも卑近な例だ。今日、グレーをいっさい排してネットを見ることは不可能である。動画サイトなどはプレイヤーのついたP2Pソフト(昔、流行ったwinnyである)と大差ないのではないか。

 現状は20年前に予言されていた。しかも当時からして、すでにほころびは見えていた。
 ただCardwirthは20年以上前からあり、なるほど個人の関係の間で、目に見える正の抑止力が機能していた時期があったのは確かだ。ほんの数年足らずだが。

 私が紅月せなさんの行為を咎める、ではなく「すげえ度胸」と感心したのは、自身のサイトで名前を出し、権利者の意思の不明瞭な素材を一方的な解釈で無断転載しているからだ。これは悪の自覚か、あるいは相手のことをロクに考えない人間じゃないとできない。

 そう、今日、ネットで活動したかったら二つの行為を常に併用するしかない。
 無自覚に畑を踏み荒らす悪を自覚することと、それを止揚し、所属するコミュニティ全体を動員できる実行力を伴った善を構築することだ。これは新しいネチケットといってもいい。
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