忍者ブログ

批評

文章力 その四

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

文章力 その四

本文なし
  いい文章、悪い文章

 私的な文章力の解説として、自身が感心した、あるいは噴飯した文章を紹介するのは悪いことではないと思う。
 しかし、いわゆる名文は有名なものがいくつもあり、それを改めて解説するのはためらわれる。また迷文に関しても下を探せばきりがない。
 なので、わたしが過去に読んだマイナーな本から、名文・奇文をひとつずつ紹介したい。


 まずはいい文章。
 最近読んだなかでは『ドラキュラ学入門』(教養文庫)が出色であった。吸血鬼伝説を扱った本であり、吉田八岑・遠藤紀勝の共著であるが、際立っているのが「悪魔学者」である吉田八岑の文章だ。
 本著のなかで吉田が小説「ドラキュラ」を紹介する。

 エイブラへム(ブラムは略称)・ストーカー(一八四七-一九二二)の手による『吸血鬼ドラキュラ』は、一八九七年イギリスで出版されて以来、一度も絶版の憂き目を見ることなく、えんえんと今日までその物語を世に問い続けてきた。
 まさに不死のベスト・セラーであり、西欧諸国でも聖書のように多くのファンを持っている。今日、吸血鬼についてのもっとも普遍的な概念は、その大部分がストーカーの書物から生まれたと言っても過言ではないだろう。
 確かにこの一冊の小説が起源ではないが、特異なキャラクターに、現実的なパーソナリティを賦与させた功績は、すべてストーカーに帰すべきものだ。
 (中略)
 ここで登場するのが吸血鬼ハンターともいえる科学者の一人で・アムステルダム大学教授ヴァン・ヘルシングである。この碩学の人物は、民間伝承(フォークロア)はもとより、神学、それに悪魔学(デモノロジー)にも造詣が深く、吸血鬼小説に見られる日常性の不自然さを、論理的(ロジカル)に納得させてしまうようなキャラクターである。
 ヘルシング教授は、ルーシー・ウェステンの病状を、いわば神のような炯眼で見抜いてしまう。つまり彼女は吸血鬼に襲われたため、その毒素が全身にまわり、いまや人間から死後の世界で生きる魔物と化そうとしていることを。彼の推測通り、世間的には衰弱死により、彼女は彼岸の人となってしまうが、彼女の野辺送りがすんでまもなく不思議なことが頻発し始める、近在の子供たちが、つぎつぎと原因不明の死を遂げ始めたのだ。



 この本で吉田は、縷々とした筆致で的確な解説、物語の要約をこなしている。
 学者としては珍しく(といってもオカルト学者なので、ある意味妥当なのかもしれないが)話の運びが上手い人だったので、記憶に残る一冊となった。



 では、悪い文章。
 これも最近読んだ本から、畑 尚子『江戸奥女中物語』(講談社現代新書)を紹介したい。
 この本は資料をもとに、江戸の奥女中の実態を紹介した本なのだが、とにかくわかりづらい。頭に入ってこない文章の典型である。
 実際に見てみよう。「2-藤波の奥女中生活」という章のなかの「実家とのやりとり」という小見出しを抜粋する。

 藤波が部屋の女中同士の交際や上司へのお礼や頼み事に利用したのが、実家のある平井村の名産品黒八丈(くろはちじょう)である。
 先にもふれたが、黒八丈は、黒一色の厚手の絹織物で、秋川・平井川流域でさかんに織られた。八丈と名がつくからには、伊豆八丈島の八丈織りと関連があると推察される。八丈織りとしては黄八丈が有名であるが、とび色の「かば八丈」や「黒八丈」も産していた。八丈縞は、八王子や桐生などで模倣され、まかひ八丈などと言われた。この地域の黒八丈も八丈島産のものにヒントを得て生産が始められた。ヤシャブシの実と泥汁に繰り返しつけて、黒一色に染め上げたもので、着物の裾や袖口、帯、羽織などに多く用いられた。寛政から文化・文政期に導入され、天保期には名産品となり広範囲に販売されるようになった。平井村では木綿縞も織られていたが、これは主に自家用であった。
 藤波は、この黒八丈を糸や端切れ、反物などにして実家から送ってもらっている。



  なにがおかしいか、わかるだろうか。
 ここの主題は、女中である藤波の生活であり「実家とのやりとり」のはずだ。なるほど最初の段落はわかる。
 問題はその次だ。赤字でわたしがピックアップした部分……たとえば「八丈と名のつくからには、伊豆八丈島の八丈織りと関連があると推察される」とあるが、いまの主題となんの関係があるのか?
 他にも伊豆八丈島の織物とか、黒八丈の成り立ちとか、生産の方法とか……ここでの黒八丈は交際のための小道具にすぎないのではないか。
 そう、赤字の部分は本筋とまったく関係のない「余談」なのである。
 この本は見てのとおり、話が頻繁に枝葉末節へ飛んでしまい、本題が埋もれてしまう。
 いやそれだけならまだいい。この本は時々、書き手が本題を意識しているかどうかすら怪しいことがある。データに口語文をくっつけたような文章なのだ。
 収集した知識は見えるが、その章で何を伝えたいのかわからないことが多い。

 問題を端的に言ってしまえば、本全体に「視点」や「論点」が欠けているのだ。いま紹介した段落は典型で、3行目で脱線する事実は、書き手に達意や主張提起の意識が欠けていることを示している。
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。