「文章力」とは? これまでわずかながら、文章におけるロジックの一端をこのブログで紹介させて頂いたが、ここに書かれているようなことは、本に書いてあったり、人づてに教えてもらえば実践できるものばかりだ。"種明かし"をしてしまえば、誰でも出来てしまう。
さて、そこで「表面的な文章のロジック」に限定して考えてみたい。このブログに限らず、あらゆる本や情報……ひっくるめて"誤解なく伝える技術"を身につけられたとして、書かれた文章は名文になり得るだろうか。
おそらく「はい」と言いきれる人は少ないはずだ。
では、その文章には何が欠けているか?
これは人によって様々だろう。思い浮かべたものは、どれもがその文章に欠落した要素の一端……かもしれない。
"何を書くか"
そこでひとつ、文章力の究極のところがわかる。
わたしは文章の極意はふたつあると思っている。このふたつさえ守っていれば、ほかに何もいらない、といっていいくらいだ。
そのうちのひとつが
「"いかに書くか"ではなく"何を書くか"」だと思う。
前回の文章力で、ダメな文章の例として
畑 尚子の
『江戸奥女中物語』を紹介した。まさに「ひどい論文」の典型といってよい。
じゃあ、文の構成がダメだからといって、この本が読むに値(あたい)しないかといわれれば――違うのだ。それらを加味した上でも、そこに書いてあることは興味深いものだから、我慢してでも読み解く価値がある。
実のところ、皆さんも手近にある本を一冊取って、ぱらぱらめくってみれば、おそらく結構な数の「おかしな文」「よくない文」があると思われる。
さて、ではその本を買い、手元に所有している貴方にとって、文章のつたなさ、間違いとはどれくらいの問題になっているのだろうか。
支離滅裂で解読不能でもない限り、文章は問題にならない。
ライトノベルがいい例だろう。ひどいものは素人以下の文章だが、それが理由で売り物にならなくなるだろうか。
これは普通の本、たとえば新書にだって当てはまる。
著者の経歴はさまざまだが、有名な学者や識者が書いているのは珍しくない。じゃあインテリなら文章もすばらしいのかと思いきや――本をそれなりに読んでいるひとはご存じのとおり、珍文奇文のオンパレードである。比較的マシな文章を書く人もいるけど、到底、上手いとは言いがたい。わずかな例外が国語学者だろう。
あーそうとも限らないなw 純文学だって一緒だ。
シニカルな批評家から「人生永遠の書の一つとして心読した」と褒められたり、あの美文で鳴らした三島由紀夫に「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」と書かせたかったら、
美しくない、読みづらい、ときに文法まで間違うような文章で十分なのだ。
もちろん、どれも構造の破綻した文がありがたくて読むわけではない。
別のところに価値があるわけだ。
こう言い切れる。まず99.9%の人たちにとって、正しい文法に執着する価値はないのだ。
もし「文章力」を「読者に最後まで読ませる力」だと定義するなら、表層的な日本語構造の比重は極めて軽い。いくら文法が間違ってようが直接の関係はない。
文章力の問題は文章にはないのである。文章を形にする以前のところに、問題の根本がある。
人によってはこう反論するかもしれない。「よくありそうな、ありきたりの話を淡々と最後まで読ませる小説だってあるじゃないか。これらに「何を書くか」は関係ないではないか」
これに対する反論はこうだ。淡々とした内容だからといって、その文章が何も考えていない、とは限らない。むしろ逆である。内容に頼れない、それだけに手法や構造により大きなウェイトがかかる……とすると、これはやはり「いかに書くか」では?
大前提を思い出す必要がある。
そもそも
「いかに書くか」とは、目的に要求される創意工夫である。「(伝えたいことを)上手く伝える」のがいい文だとするなら
「(伝えたいことを)」 が「何を書くか」
「上手く」 が「いかに書くか」である。
「(伝えたいことを)伝える」なら成立する。
が、「上手く伝える」では成立しない。伝えるものが存在しないからだ。 例にあったありきたりの話は、書き手に伝えたい淡味が認知できていたのだと思われる。
余談であるが、世の中には(伝えたいことを)認識できないまま、上手い文章を書きたがる人たちが多くいらっしゃる。
「いかに書くか」は「何を書くか」の中にしか存在しないのである。