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批評

文章力 その二

本文なし
  カード解説はなぜ読めるのか?

 カードワースはカードを右クリックすると、そのカードの解説が見れる。
 このカード解説は一行19文字、トータル125文字という書式だ。ここで気になるのは、前回話したメッセージ欄が一行21文字、トータル125文字だということ。
 この二つは一行の文字数が違うだけでほぼ同じなのである。
 しかし、よく考えてみると、カード解説のほうで書式に対する注意を聞いたことがない。みっちり125文字、行間のない文章でも、それらが問題になっていない……これは妙なことだ。

 そも、カード解説欄はメッセージ欄よりウィンドウが小さく、二つを比較すれば、カード解説は「より読みづらい」はずだ。だが現実には、メッセージ欄に行間をもうけ、カード解説には一杯に文字を詰めている。

 この事実には、文章に関する重要なエッセンスが含まれている。
 カード解説はなぜ読めるのか? これを二つに分けて解説したい。


  ①:送受信される情報のギャップが少ない

 たとえば、皆さんが新しい技能カードを手に入れたとしよう。
 名前や画像はいいカンジだ――となれば、さて、次はどうするだろう。
 おそらく、ほぼ100%、カード解説を見るだろう。・・・・・・なぜ? 名前と画像が気に入ったなら、即、装備してもいいんじゃないか。
 もちろん、そんなことはできないはずだ。名前と画像だけでは情報が少なすぎる。だからカード解説を見る。
 カード解説から読み取れる情報は何だろう?

「カードの種類」
「技能カードのレベル」
「技・アイテムの効果・説明」
「カードの適正」


 といったところか。これらは実際に使うにあたって、どれも必須の情報だろう。
 しかしよく考えてみると、細かい差異はあれ、上の四つがシナリオ作者を横断して、決まってカードに書かれているというのは、ちょっと不思議だろう、示し合わせたわけでもないのに。
 
 ほとんどの方が、そんなことに疑問は抱かないはずだ。
「上に書いてあるじゃないか。『実際に使うに当たって、どれも必須の情報』なんだから。作者もプレイヤーの一人。使い手の側に立って文章を書くに決まっている」

 もうおわかりかと思う。「書き手の発信する情報と、受け手の欲している情報が一致」しているから、受け手は特に意識もせず読めるわけだ。
 これは書き手も一緒である。「作者もプレイヤーの一人」という当たり前すぎて意識しない事実が、コンセンサスの取れた文章へ収束させている。

 これはカード解説に限らず、どんな文章でも同じだ。
 多くのメッセージ欄は「相手を話に乗せられていない」。発信する情報に、受け手にとっての必然性をこめる事ができていない。だから読めない。

 ちなみに、冒険中に選択するカードにも解説があるが、そもそもあれは絶対に読まれるものではないという点に注意したい。


  ②:情報の重要度・密度が高い。
 
 カード解説は文字数に制限がある。たった125文字だ。先ほど挙げた四つの必要な情報をこめると、さて、いくつ文字数が余るだろう?
 たとえば、ステキなスキルのアイデアがある。設定はゆうにノート一ページ分! これをカードにしようと思い立つ。が、上の事実に気づいて、絶望する。
 しかしどうしてもカードにしたい。となると、このノート一ページ分の設定を、125文字以内に収めなければいけない、必須の情報も一緒に。
 文章を短くする――とは、方々で書かれているけど、実のところ、表面的な構造の無駄をいくら削ったって、ノート一ページの設定が100文字そこらに収まるわけがないのだ。
 それに気づいた段階で、別の方法にシフトする――ノート一ページの中から、特に伝えたい情報を厳選するようになる。それは作者にとって設定の核であろうし、それを選び取った作者の思想――虚飾から分離した本質――それは旨み・臭気が強く出た部分にもなる。
 さて重要な情報は選んだ。しかしそれでも、125文字には収まりそうにない。文もそのままじゃハマらないし――ここで初めて文章の圧縮が始まる。このフィルターを通して残りの雑味も濾過されて、残ったのは「よく洗練された本当に伝えたい文」になるだろう。短く切れ味があり、強く達意の押し出された名文を読まない理由があるだろうか。

 極端に文字数の少ないスタイルは、書き手にそれと意識させず「テーマの追求」と「推敲」を要求する。
 コンテントを重ねることで無制限の文字数を得られるメッセージ欄が読めないのは、このような理由による。

 さて、二つを理由を挙げたが、共通しているのは「意識しない」ということだろう。
 まさしく意識しないゆえに、カード解説欄は行間なしで読めているにもかかわらず、メッセージ欄に奇妙な書式が生まれることになる。


 「文章を短くする」

 ここまで踏まえたうえで、「文章力」を高めるコツをひとつ。
 上に書いたように、文章を限界以上に短くしようとすると、本当に重要な部分を取捨選択するようになる。すると断腸の思いで文を切り取るしかないが、自分の腸なので安易には切れない・・・・・・大いに悩む。「どこを残すか?」その過程で、自分は本当は何が伝えたいのか、自分自身にも明確になってくるのだ。文章を短くすること。
 おかしな話かもしれないが、文章を書いているのに、自分は何を伝えたいのかわかっていない人たちが多くいるのだ。その意識は無意識に身につくものではない。意識して短くしようとしないと、いくら書いても無駄だ。これはただ表面的な文章のロジックとは、まるで無関係のスキルだから。ロジックは機械的に文章を校正するのには役に立つが、自身の中にあるテーマをつかむのは思索である。可視化された文章と、それを書いた自身との対話の中でしか生まれない。
 批評でも「長い。短く」と口酸っぱく言っているのは、まさにこの事なのである。煮詰めるという発想がないからピンボケして伝わらず、それは作品全体から一行にいたるまで、すべてに見ることができる。
 逆に、自分は言いたいことを理解している。的確に伝えられる自身があるというのなら、いくら長くしてもかまわない。ちゃんと文章に密度が確保できるなら。

 これとは逆で最悪なのが、思いつくままにのんべんだらりと書き綴った文章だろう。
 思いつくままつらりと書いたのが自然で純粋なんだ・・・・・・という奇妙な信仰が時折見られるけど、言葉とはすでにそれ自体が調理である。その感情は下手糞に火が通っている。
 確かにこの書き方でうまい人はいるけど、ごく少数だし、才能の問題である。自身がそうか否かはひとつ書いてみればわかることだ。

 改めて「文章を短くすること」。
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