始める前に、まずは「文章力」を定義しよう。このブログでは「滞りなく読めて、相手に伝わるCardwirthの文章」を「文章力がある」と定義したい。
さらにふたつ注意。
一つ。この記事では本で判るような基本の文章法を扱わない。
文章をどう書いていいか分からない人は、まず本を読んで勉強する事から始めるべきだ。
ネットでお勧めを聞いて回れば、素晴らしい入門書がいくらでもあるのが分かる。
二つ。ここではCardwirthという限定的な環境に特化した話をする。
ここはCardwirthのブログなので、シナリオ作りに参考になる、Cardwirthに関わる文章法を紹介したいと思う。
では、文章の中身に触れる前に、Cardwirth特有の事情を解決しよう。
Pabitさんの提言 Cardwirthの作家にPabitさんがいる。氏のサイト「Under Heart」には製作に関するコラムがあり、Cardwirthの文章について提言がある。
このなかで、CardWirthのメッセージ欄についての事情をあげてみる。
「cardwirthのメッセージ欄は、行間が狭すぎる。適度に空行を置かないと、短文でも読みづらい。2行に一回くらいの空行があると良いだろう」
「cardwirthにおいて、プレイヤーがストレスを感じずに文章が読めるのは、2~3行程度である。4行以上はプレイヤーが読む気を無くすと思うべき」 なるほど。
「行間が狭いと短文でも読みづらく、4行以上は読む気をなくす」ということらしい。
これを説明するには、行間それ自体を解説した方が早そうだ。
行間の三つの機能を説明しよう。
①:ふりがな(ルビ)を振るスペースの確保 見ての通り。
行間がなければ「ふりがな」はふれない。
②:行と行の移行をスムーズにして、ストレスを軽減させる。 例文を挙げよう。とりあえず数行は読んでほしい。
※クリックで展開 どうだろう、一行を読み終わり、右の端から次の行に移るとき、
「ちょっと注意」するはずだ。人によっては
「行を間違える」かもしれない。 では、行間を付けてみる。
これなら「ちょっと注意」しなくていいだろう。行も間違えない。
②は文の読みやすさに直結する要素だ。
行間の主な役目は、この②だと言ってよい。②のために行間を作るのだ。 この例を見て、疑問に思う方もいるだろう。後で解説する。
③:第一印象のストレスを軽減させる。 例文をもう一つ。
読まなくていいので、ぱっと見の印象を答えてほしい。
次はどうか。
明らかに印象が違うはずだ。
どうやら視界いっぱいに文字が詰まっていると、読み手は嫌気を起こすらしい。
行間はこの嫌気を押さえてくれる。
③は第一印象に関わるために、判りやすさを必要とする活字媒体では特に注意される。 ――さて、ここまで読んで、鋭い方は気付いていらっしゃるかもしれないが……
行間が問題で読みづらいなら
これに至っては論外だろう。行間が無いうえ文字まで小さく、それもみっちりと文が詰まっている。まったく読めないので機能していないはず。
これは一体、どういう事なのか。
どうやら必ずしも、行間が無いと読みづらいわけではないらしい。
つまり、こういう理由だ――
「書式に吸収される」 ではまた、例文をひとつ。
これは
"横書き"である。
まさかと思うが、これで「行の移行にストレスを感じ」たり、「パッと見の嫌気」が起こった人はいないだろう。
このバカバカしい例は、しかし、極めて重大な示唆を含んでいる。つまり
行間は絶対に必要ではなく、書式の問題の一部だという事。
どういうことか?
結論を先に言ってしまおう。
行間の②と③の問題は、一部、書式で吸収できるのだ。
ここで、②の例に疑問を持った人に答えたい。
ひとつは、一行が長く、文字が小さいほど必要な行間の幅は大きくなる。
ふたつめは、アレくらい誇張した例じゃないと、一目で実感できないのだ。
納得できない方は小説を何でもいいので「メモ帳」にコピーして、一行を目一杯伸ばした書式で30分ほど読み比べてみよう。違いが実感できる。
さて、「アレくらい誇張しないと実感できない」行間の役割を踏まえたうえで話を戻すが
一行19文字125字詰なら読めるのである。
ちなみに
Cardwirthのメッセージ欄は一行21文字125字詰め、もちろん読める。
とはいえ、実際、上の書式だと、読める文章と読めない文章が出てくるわけで。
では、この書式で行間を使わず書くにはどうしたらよいか。
※
誤解をまねく書き方だったので、追記。
ここから先は行間がなくても読める文章を書ける人が、行間がないことのデメリットをどう克服するかを扱っている。
最後に書いているが、読みづらい文章は行間と関係なく、読みづらい。逆もまた真なりだ。もちろん文の中身のほうは後の回で触れるつもりだ。
行間を使わない書き方 実践に移ろう。
②は、行と行の移行をスムーズにするために、行間を使っていた。
そもそも何故、行間がないと行の移動がしづらくなるのか?
それは、
視線の移動量で行の区別をしているからだ。
行間がない場合、一行の文字数が極端に多く、行頭が視界に捕らえられなくなってしまうと、改行に困難をきたすらしい。
行間は問題を解決してくれる。
一行を区切り、さらに視線の移動量を増やすことで区別をしやすくして、ストレスを軽減しているわけだ。
解決策は……要は、次の行と区別がつけばいいわけで。
もっとも単純な方法は、一段落を二行にすることだ。 前の行と次の行の高さが違う事で、行の区別がはっきりとする。 ※
これは恐らく、間違い。
なぜならすべての人間が、段落を意識して読んでいるとは限らないから。あったとして、意識のレベルとしては決して高くないのではないか。
段落は書き手の意識の問題、読み手がそれの意味を解する場合のパッケージであって、直接の読みやすさの補助にはならない。
直下の「三行まで」も読みやすさの補助にはなっていないが、さらに下※の「行間がない場合のストレス」の解消には機能している。
これは極端な例である。実際には、もう一行あっても問題ないようだ。上・中・下って感じで認識できるらしい。
Pabitさんの言っていた「三行まで」である。
より読みやすくしたい場合、最後の行は段落の終わりであることを明快にする。行を一杯書かずに空白を作るのだ。 ※
「改行は無いけど読み易い文章ならば三行で区切る必要はないと思います」
というご意見をいただいた。これは
通常なら正論だ。下で実証している。
しかし、ここで論じているのは「行間がない場合のストレス」である。たとえば改行のないまま、10コンテントもメッセージ欄が続いたら、問題にしている「行の移行のストレス」が出てくる事になる。
その点、三行以内で一段落ならば、そこで読み手も一区切りが付けられる。一度に認識できる文字数が125文字、かつ
トータルの文章量が不透明になりやすいCWシナリオでは、段落は重要になる。
この書式だと三行が一つの指標だという事。もちろん、文の流れによって増減させてよい。
③の第一印象はどうだろうか。
嫌気の原因は何か?
「文字が詰まっていて、黒く見える」
「一段落が途切れず、何行にも渡っている」
といった文章から読み手が連想するのは
(相対的な)情報量の多さ = "重い文章"の予感
不明瞭な段落、主張
長文の予感 などである。
嫌気の原因としては十分だろう。
ちょっと脱線しよう。
漢字の使い方は注意したい。たとえば
「仁義にもとる」という言葉が文章中にあると、どうだろう、
パッと内的な理解まで直結して、つらつら読めるだろうか? こんな極端な例じゃなくても、慣れない漢字や文章は意味に変換するのにひと手間かかるので、まず出来るなら平易な言葉を選びたい。
話を戻す。
とすると
この三つでは、明らかに印象が違うだろう。
つまり漢字を少なくし、見た目にも変化をつければ、③の嫌気は起きないということだ。
さて、行間に関して簡単にまとめてみたが、いかがだったろうか。
行間は必ずしも必要ではない。必要な文もあるが、無くても無いなりの書き方があることがわかった。Pabitさんの行間に対する指摘は半分だけ、正しかったわけだ。
行間は文を…… ひとつクギを刺しておきたい。
今から例を挙げるが、パッと見で、読みたくならなければ読まなくていい。
私は読まない。
次はどうか。
これならどうだろう、さわりくらいは頭の中で音読しようとするはずだ。
これはブイヨンさんが使った方法で、(ここには書いていないが)Pabitさんも似たような提案をしている。
最初は読めるものの、文法はめちゃくちゃになり、文章量もごく限られたものになってしまう。
そして最後の行くらいの長さになると「重く」なってくる。
Pabitさんの提案を試してみよう。
「2行に一回の空行」「3行以内」で書いてみる。
どうだろう。すこし圧迫感が薄れたような気がするけど、
読みやすくはなっていない。やっぱり目が滑る文章のままだ。
何が言いたいのか?
元の文章がダメなら行間があろうが無かろうが読みづらい、って事。
行間は文を改善しない。