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批評

解題「旧き沼の大蛇」

本文なし
 旧き沼の大蛇  ~RPGにおける誘導の妙~

 TRPGにおいて、ゲームマスターの実力を測るものさしがあるとすれば、それは「誘導」の上手さだと思う。
 というのも、誘導という要素は、このゲームにおいて特に重要な要素を占めているからだ。「冒険者は自由である」という建前に対し、ゲームマスターが用意できるシナリオはごくわずか。否が応でもプレイヤーたちをレールに載せなくてはならないわけだ。
 あらゆるゲームにおいて、誘導に対し責任をもつ必要があるジャンルは珍しい。ゆえに、優秀なGMと呼ばれる人たちは、自らのシナリオを活かすために、誘導の技術を徹底的に磨くのである。

 シナリオ自体はオーソドックスだ。いまでもGroupaskのサイトでダウンロードできるので、ぜひともプレイして欲しい。ここでは、大まかなあらすじとゲームの内容を理解している前提で話をする。

 ポイントを2つ挙げよう。「ヒドラの再生」「シナリオの派生と優先順位」だ。


 ヒドラの再生

 最初のヒドラは、わりと苦戦せずに倒せるはずだ。首の一本一本は強くない。
 ……力押しで倒しきった人は、その「ある種の強さ」に舌を巻くだろう。そう、ヒドラは一度倒しても、首が再生して襲ってくる。それも一度や二度ではない。それこそ何度も何度も蘇ってくるのだ。--首の数を増やしながら!
 この時点で、すでに誘導が始まっていることにお気づきだろうか。「普通に戦うと弱いが、倒すと再生する」というのは、正攻法以外のやり方があることを示唆している。
これが中途半端に強いと、シナリオが破綻する。トライ&エラーになったり、変に時間を食わせてはいけない。ここでプレイヤーにプレゼンするのは「ヒドラとしての強さ」であり、タクティカルな戦闘ではないのだ。
 しかし実際「弱いけど再生」という条件だけでは、なんとなく戦闘を続けてしまおう、という輩が出てくる。倒し続ければ変化があるだろう、と推察する人で、この可能性を潰すために、ヒドラの首が増えるのだ。
 倒せば倒すほど首が増え、ドンドンと危険性が増す。しかも最大四回も再生するのだ。ほとんどのパーティが、途中で安全のために、別の方法を模索するようになる。
「別の方法」を選ばせるために「あえて弱く」して「首を増やす」。二重の方法でプレイヤーの誘導を行なっているわけだ。
 もう一つ、この節の最初で「ある種の強さ」と書いている。この強さは「PCの実力と関係なく味わえる」という点にお気づきだろうか。
そう、たとえレベル10でも20でも、ヒドラのしつこさは変わらないのである。演出の本懐といっても良い、素晴らしい方法だ。


 シナリオの派生と優先順位

 「旧き沼の大蛇」は、大きく分けて二つのシナリオがある。「聖なる火」と「ゴリ押し」だ。目的に対する二つの方法があって、どちらかを選ぶようになっているわけだ。
 おそらくお気づきだろうが、シナリオには優先順位がつけられている。いわゆる「正規ルート」と「別ルート」だ。この場合、聖なる火を使うのが正規ルートである。
 このシナリオと他のマルチシナリオ、決定的に違うのは、ルートの分岐と優先順位がプレイ中に意識できる、という点だ。
 これは上記の「ヒドラの再生」が役割を果たしている。よく考えてみよう。完膚なきまでに倒しきる、という方法は、どう考えても普通ではない。首が増えてヒドラが強すぎるし、あの見えていた遺跡は何だろう……と言った論調になる。
(そう、遺跡が見えたのも立派な誘導なのだ)

 ルートの分岐に対し、はっきりと演出できない方が、実際あまりにも多いのだ。分岐までは理解できていても、方法がわからない、結局一周させただけて、正規ルートじゃない、別の作りこんだルートが無駄になる。テーマが理解されない……
 ーーこれは、マスタリングできていない、と同義語である。


 これが面白いかどうかは別として、「上手い」というのは、こういうことだ。
 点数は高くないし、TRPGのシナリオとしても凡作だ。しかし、ここに至るまで、込められた思想と時間は本物なのである。
 これは技巧派として身を立てた、一人の作家の小品である。この評論を以って保証したい。
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