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批評

文章力 その三

本文なし
  漢字の使い方

 日本語で文章を書くとき、とくに問題になるのが、ひらがなと漢字の使い分けだろう。日本語は同音異義語が多く、漢字を的確に使わないと、文章の伝達力は極端に落ちてしまう。

「達意」の観点から、漢字の的確な使い方を考えてみると

  1・難読の漢字、常用外の漢字は使わない。
  2・ひらがなだと意味が伝わりづらくなる場合に漢字にする。


 の二つが基本だと思われる。


  "漢字は読めない"

 1番の方は何となく理解できると思われる。見たことのない漢字が出てくると、ふりがなでもふっていない限り、読めない。それに読めたとして、意味がわかるとは限らない。事実、皆さんも何となくのイメージで理解している漢字は非常に多いはずだ。
 なら達意の観点で見るなら、知っているとは限らない、意味が理解できない漢字は使うべきではない。これは読み手の対象が広ければ広いほど重要である。成人から小学生まで読む文章なら、使える漢字は限られてくるだろう、ということ。

 2番の方は・・・・・・副題のとおり、基本的に漢字は読めないのだ。だからベースはひらがなで考える必要がある。
 ――そんなバカな。と思っている方が相当数いらっしゃるから、今回、基本的なことを記事にせざるを得ないわけで。


  "一寸"

 ここで例文を一つ。

「一寸先は海ですけど」

 読めるだろうか。
 もちろん、読めると思われる。「ちょっとさきはうみですけど」で99点
 次はどうだろう。

「一寸先は」

「ちょっとさきは」でしょ? それじゃ50点
 次はどうか?

「一寸先」

「・・・・・・いっすんさき?」・・・・・・正解とはいえない


 "一寸"は"ちょっと"と読めるし"いっすん"とも読める。
 これで問題になるのは、どのタイミングで"読み"と、そこから立ち上がる"意味"を確定できるか、ということ

 たとえば例文の「一寸先」。読みは「ちょっとさき」でも「いっすんさき」でも成立している。
 もちろん「ちょっと」と「いっすん」は意味が違う。「いっすん」の方は尺貫法の単位であり、厳密な長さを含んでいる。「何となく、ちょい少し」というニュアンスで濁すことはできない。
 
 「一寸先は」はどうだろう?
 鋭い方は「一寸先は闇」(いっすんさきはやみ)ということわざを思い出したと思う。
 事前の例文に引きずられて「ちょっとさきは」と読んだひとも間違いではない。「一寸先は闇」ということわざが確定するのは最後の「闇」が見えないといけない。――だから50点なのだ。

 では、なぜ「一寸先は海ですけど」は99点なのか。
「いっすんさきはうみですけど」でも文章として成立しているからだ。約3.03cm先は海であるという説明は現実的ではなく「ちょっと」と読む可能性が高いだけだ。

 つまり、上の例文3つの「一寸」は、意味も読みも確定していない

 日本語の文章を読むときは、漢字が出てくると、頭の中で複数の読みを並べて保留し、前後の文から推察して逆変換、確定する作業を繰り返している。
 つまり漢字が読めない、というのは「日本語の漢字は、文章の中で定義づけられるから」なのだ。

 では「一寸先は海ですけど」を100点にするには、どうしたらよいか。
 漢字は読みが確定すれば、意味も確定する(大概の場合は)。つまり

ちょっと先は海ですけど」
 

  先人の知恵

 ここまで読んで、良質な文章に触れてきた方なら、なんであの文章はあんなにひらがなが多かったのか、なぜ漢字を使わなかったのか、判っただろう。文章を明晰にするために、削られた漢字の使い方が数多く存在するのだ。

 この話は出版関係や、日本語を勉強した方なら常識だ。
 しかし、ここ十年くらい、ネットで誰でも文章を発信できるようになると、ワードプロセッサで言葉を安易に変換できるせいか、廃れた用法がふたたび目につくようになった。

 これらをひとつひとつ挙げて解説はしないが、たとえば
「先ず」
「直ぐ」
 などは見るたびに苦笑いしてしまう。

 よく考えてみよう。「先」も「直」も使用頻度の高い漢字である。別の言葉に当てたほうが文章の濁りは少なくなる。達意の文章には不必要な用法なのだ。
 これらの言葉は衒学の表現として生き残っているに過ぎない。それらのふさわしい文章に意識して使わなければいけない言葉なのだ。
 しかし繰り返すようだが、今日ではワードプロセッサで安易に変換できるがために、使い手の意識が試される言葉になっている。
 衒学的というアドバンテージを失った廃れた用法を好んで使う心理を、よく考えてみたい・・・・・・

 文章中の漢字が多ければ高級な文章である、なんて思い込みは捨てるべきだし、語彙の貧困をワープロで糊塗するようなマネはやめるべきだろう。見る人が見れば――丸わかりだ。

 常用外の用法の復興は、墜ちるところまで墜ちた文章力の証左なのである。
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