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批評

かつて「NPC」だったもの

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かつて「NPC」だったもの

本文なし
 最近のシナリオの解説文を読むと、人を限定しているような作品が多い。
 たとえば

・それなりの冒険を共にした、仲のいい(ただし普段は軽口を叩きあっている)冒険者4人以上
・どこか悲観的な彼/彼女は、すっかり冒険の日々に疲れていました。そしてそんな彼/彼女の傍らには、いつも気にかけてくれる大切な人がいたのです。
・自動判別によるPCへの断定的な役割・性格付け


 ※特に目立つものを三つまでピックアップしました。他意は無いです。

 違和感を感じないだろうか。
 プレイヤーはキャラクターを作る時、自分の好きなように作っているはず。特に誰からも指図されないし、されたくもないはずだ。となれば、プレイヤーキャラクターの種類はそれこそ星の数ほどあるはず。
 それは上記のようなシナリオを作っている人達も一緒だろう。
 それが共通認識のはずなのだが、いざ作り手に回ると、非常に限定された人物像や人間関係を他人のPCに要求してくる。
 何故だろうか。
 
 実は、上記のようなシナリオを作る人は、昔からずっと存在している。このような作り方をしなかっただけだ。
 ならら以前はどうだったのか、というと、PCには演じさせなかった。
 これらの役割は「NPC」が担っていたわけだ。

 NPCに演じさせるというのは道理として正しい。セリフ、行動、冒険の動機に至るまで、PCの主権を侵害せず、かつ断定的に書きたいなら、NPCに任せてしまうのがベストだろう。
 自然な成り行きとして、自分の理想の冒険(者)を書きたい時は、NPCを主軸におき、そこに余所の冒険者をくっつける、あるいは丸ごと排してしまう形が生まれた。

 ただし近年になって、PCが喋るのを好む層が主流になり、とにかく猫も杓子もPCを喋らせることに気を割かなくちゃいけなくなってきた。
 世間のPC主導への要求、PCが喋ればなお良い、という状況と、もう一つ付け加えるなら、共感や私的体験を軸とする女性層の台頭が相まって、垣根が崩れて出てきた形式。
 これらはかつてあった「NPC主導」「純・読み物」シナリオの変形なのだ。

 この形式の問題点、というか、もうシナリオは割り切りの産物だと思っているので、わざわざそこを指摘しない。
 問題は作者の意識の方。この事に気づいているかどうか。自覚がないと割り切れないはずだ。


  共感できる第三者

 しかし、割り切って作ってる方々に言わせてもらうと、率直に感心しない。
 PCに狂言回しをさせれば一足飛びに共感という名の自己同一化が達成できると考えているのか、そう勘繰ってしまう。
 NPC主導でいいんじゃないかと思うのだが。「夢は南海を駆ける」など成功例もある。

 小説と一緒だ。共感できる第三者を書けるようにしたい。
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