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批評

「CardWirthの批評」とはなんだったのか ~カードワースの構造~

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「CardWirthの批評」とはなんだったのか ~カードワースの構造~

本文なし
 この記事は「『CardWirthの批評』とはなんだったのか」の続きになる。未見の方はまずそちらを読んでいただきたい。

 もう一つ。今回の記事は以前に書いて現在は格納されている「カードワースの評価と、その構造」と重複する部分が多々ある。理解の補完に役立つかと思われる。

 最後に。ここで出てくる「cardwirthの批評」「批評」という単語はこのブログと直接の関係をもたない。


  「批評」は悪い?

 前回の記事で、Cardwirthのコミュニティは時代の変化に翻弄され、それに人々がどのように対応してきたかを「cardwirthの批評」という言葉を軸に追ってみた。
 物事を単純化しすぎると「(cardwirthの)批評が悪い」という結論が大手を振って歩き始める。誤解を解いておこう。

 まず言葉通りの「批評」は、cardwirthにおいて一度として顧みられていない。
 なんのこっちゃない。ほかの業界と一緒で批評にムキになれる人種はごく限られている。みなさんだって本を買う前はレビューを見るかもしれないが、読んだあとに理解を深めたくていちいち書評をめぐる機会は少ないはずだ。
 必要とされているのは「地雷除け」あるいは読後の「(確認を含めた)同意」である。

 じゃあ「cardwirthの批評」はどうか? 
 これも不可抗力だった。時代の変化に器用に対応できなかった。犠牲は少なくなかった。だからといってここを責めると、めぐりめぐって自傷行為になりかねない。
 どうにもならなかった。というのが落としどころだろう。

 ただ、それにしては、Cardwirthの感想あるいは批評は、いちいち俎上にあげられすぎだ
 その意見がポジティブにせよネガティブにせよ、作者や第三者の反応は苛烈に過ぎる気がする。ほかのフリーゲームと比較してみたらいい。意見は様々出るだろうが、それが作品にとって直接の問題になることはほとんどない。ヨソのフリーゲームは突き詰めていくと、結局は作者の自己評価に帰結するし、それに周囲を含めて納得している節がある。

「感想に敏感なコミュニティ」というのが、実はCardwirthの本質を鋭く表現している。
 Cardwirthが今日まで生き残ってきた理由といってもいい。


  ギャップ

 核心に迫る前に、ちょっとだけCardwirth固有の事情について説明したい。
 Cardwirthはプレイヤーの作るキャラクターについて、能力やシステムの面はともかく、設定に関しては全裁量を与えられている。流行のシナリオがある、名作もある。そんな事情は無視して昆虫だのおっぱいだの画像を用意して、キャラクター解説に独自の世界観を書きなぐったメンバーで恋愛もののSFシナリオをプレイすることだって可能だ。
 ここで重要なのは、宿屋のメンバーの中で整合性のとれた理想のパーティを作れる半面、シナリオは裁量を他者にゆだねなければならない、という点だ。よくある「こんなこといわない問題」は典型的だろう。Cardwirthを遊ぶ時に「こんなはずじゃない」はあらゆる場面で常に一定の音階を途切れなく流し続けている。
 シナリオ制作はどうだろうか。
 こちらも裁量はほぼ全部、といっていい。だがキャラ作成と違い自分一人だけで完結はできない。シナリオを公開し「他者を意識する」(他者の反応ではない!)ことで初めて充足できる。
 ただし、前述の自己完結と他者意識の間にできるギャップは、シナリオ制作者へとある要素を提案する。つまり他者のあらゆる宿を意識した「汎用的」シナリオの要求だ。
 これは明確に作者のスキルや資質が要求される部分だ。

 別の事情はどうか。
 Cardwirthは上記の「汎用的」事情もあり、短編シナリオに向いた構造をしている。
 たとえば10時間を超えるような長編は明らかに作りづらい。無限のキャラクターすべてに当てはまるストーリーは、シナリオの中でPCを軸にした設定を積み重ねていくことを不可能にする。
 公式シナリオも10分で終わるものがあり、必然、(ほかのゲームと比べると)短編が主流となった。
 ほどほどに自由のある、よくできたエディタと相まって、シナリオ作者としての参入障壁は非常に低いゲームである。これは爆発的な参加者を呼び込むと同時に、しかし能力が要求される「汎用的」シナリオの相対的な少なさを生み出すに至った。要は「無数のクソシナリオと遊べるシナリオ」である。 
 短編の作りやすさはちょっとした思い付き、エッジの効いた、交流を前提としたシナリオを作れる土壌ともなった。


  Cardwirthの呪い

 簡単に作れて容易に自己完結が可能なキャラクター制作。
 参入障壁の低さとは真逆の、難度の高い「汎用的」シナリオ制作。
 この二つのギャップが、Cardwirthにある特徴を植え付けた。他者の積極的な承認を要求するコミュニティである。

 誰もが容易に完全を見る宿の世界に、異物であるシナリオを「組み込む」場合、プレイヤーにはその融合にそれなりの支払い――熱量が要求される。この支払いは個人とシナリオの間だけなら何の負担にもならない。それは完全な世界の出来事で完結するためだ。
 ただし、絶対的に異物でありつづける部分「他人」がいるなら別だ。必然、その極めて私的な取引の判断を「己の責任で抱え込む」ことになる。
 みずからの世界観に無数の世界観を自己の判断で取り込んだプレイヤーが、まったく同じ過程を経ている別のプレイヤーとコミュニケーションをとる場合、互いに選ぶシナリオがすべて重なっていることなどありえない。シナリオの数が多くなるほどギャップは大きくなる一方となる。
 こういう短く、未熟な大量の作品群から一本を自らの責任で選び取る行為はどうしてもウェット……情緒が入りやすい(嗜好をさらけ出すとも説明できる)。そも、ただでさえ私的な世界観と融合させることを前提とし、それを人に認識されるのだから極めつけである。※1

 ゆえに流行は勢いづき、既成事実やアクティブな発言に左右される「共有できる世界」※2人気を集中させようとするのは必然なのだ。誰もがお互いに自らの負担を軽くすべく「みずからの世界につながった選択」を広汎な承認にしたいのである。※3
 また当然、そこで作られるシナリオもこの文脈が強烈に作用する。簡単に作れてしまうことの責任をひとりで負わないためには、積極的な契合が最適かつ安易な解決法になるのだ。
 しかも、Cardwirthではさらに
「未熟な短編」がプレイヤーに積極的な介入を。
「エッジの効いた作品」はプレイヤーに読解のストレスを。
「交流を前提としたシナリオ」はいうまでもなく。
 宿とシナリオのギャップを軸に、短編傾向から生まれたシナリオ群はそれを強化するように「他者の積極的な承認を要求」した※4

 これが一般的なフリーゲーム系との決定的な違いだ。
 一般的なフリゲは世界観を一括で抱え込む作者の作品を、作る側に立つことを一切想像することなく、他者は突き放して評価できる。ゆえにドライな空気が醸成される。

 まさしく、ここで見逃してはいけない点は「プレイヤー=作者」だったことだ。
 作りやすいエディターから未熟でつまらない短編、スノッブあるいは私的世界の露出の自己満足、特定の相手や状況に作ったシナリオなど。これらを作る自由が製作者側にはあるが、これは「汎用的」とは明らかに真逆だ。この二つのギャップを埋めるのはもはや自傷行為にほかならない。「積極的な承認」を求める側がプレイでは進んで「積極的な差別」を行うのである。


  死なないコミュニティの空気化

 二人のプレイヤーがいて、どちらかシナリオを作り、感想を求めた時点でこの呪いは現実となる。内心微妙だとは思いつつ口先では面白いよと答える。自分のシナリオつまらないといわれるのはイヤだろう? Cardwirthは相互承認のコミュニティを要求しつつ、そこに欺瞞も要求するのである。
 このサイクルは必要最低限の認知が生み出している点に着目したい。「Cardwirthのコミュニティ」はCardwirthが生かし続けているのだ。消すにはCardwirth自体をなくすしかない。

 ここからが核心である。
 解決できない矛盾は無意識の上で否認され、見えなくなり空気化する。異常が日常になり、その日常を前提に人々が動き始める。
「意識しない相互依存」を前提としたコミュニティが現れるのだ。

 消せない微温関係にすがりつくデカい顔した古参、コミュ障、精神異常者。かつて居た無視できないが故のスノッブ。そして相互依存の反発として生まれる、やはりその状況に依存した割り切り、馴れ合い※5。過度に寄りかかる、あるいは反発するシナリオ。妄想の中の承認、不満、匿名の意見、批判批評。

「Cardwirthの批評」問題は潮流の産物だが、その根底にはCardwirthそのものがある。


※1
 ここまでの例に当てはまらない人たちが相当数いるのもわかっている。相互コミュニケーションを意識しないタイプの人だ。こと男性には多い。
 ただし何かしらの形で公開はしている、ということは、やはり承認そのものは欲しいのである――それも一方的に。この下で語るとおり、Cardwirthの構造に寄りかかることで居場所を見出した人たちだ。その作品傾向は独立独歩を気取ったものになりやすい。
 対外の露出が少なければ少ないほど、責任は軽くなる点にも注意したい。スキゾイド傾向のある人からはCardwirth(コミュニティ)は全く別の世界に見えていることだろう。


※2
 ここでいう「世界」とは、シナリオだけを意味しない。もっとはるかに多くのもの――他人から見られる自らの判断すべてだ。流行に乗る、シナリオを選ぶ、意見を公開する……まだまだある。私的な選択は他人との間に摩擦の火花を簡単に起こしやすく、些末な違いにも敏感になる。人によっては相手から否定される妄執に結び付きかねない。ゆえにこれらすべてに「広範な承認の欲求」がついてまわることになる。


※3
 2010年代に入って参入してきた人にはピンと来ないかもしれない。なぜならおススメのシナリオはすでに固まっているし、彼らもまたそういうシナリオばかりプレイするだろうから。すると必然、自らは選ばない、見えない共有に守られることになる。
 ただし既成価値から大幅に逸脱したり、自身でシナリオを公開するとなると、途端にわが身の問題となる。Cardwirthに関するSNSの動向を顧みたらいい。


※4
 この三つは短編だから作れる、というだけではなく、最後に説明する「意識しない相互依存」の側面を忘れてはいけない。要は「環境に甘えている」のだ。むしろ環境に甘えがあったからこそ、この三つのスタイルが許容されている、とも考えられる。


※5
 このブログの開設直後(2008年)のコメント「傷の舐めあいのような感想」とは、けだし慧眼であった。
 Cardwirthという杖がなければ自立できない「作者=プレイヤー」の集まりは、「コミュニティ」という自然発生的な寄り合いを装いつつ、自他の区別をあいまいにしたまま相互承認し続ける必要があったわけだ。
「作者=プレイヤー」は「他者の積極的な承認」「広範な承認の欲求」「積極的な差別」の中をぐるぐる回り、他者とのかかわりあいの中でその認識の正当性を得(相手も同じなのだから!)、それぞれを一層強化していく。
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